乳房新抄 (原題不明) ラモン・ゴメス・デ・ラ・セルナ Ramon Gomez de la Serna 堀口大學訳 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)細い水脈《みお》がひと筋 |:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号 (例)厄介|乳房《もの》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)訳者[#右詰め] -------------------------------------------------------   著者のまえがき  著者はこの書を、いたずら半分、乳房という名の象牙を材料に、手品みたいに書きあげた。文章という名の慰みの材料に乳房を採りあげ、これを独自の言葉と想像力で捏ねくりかえし、あたかもこれが乳房という名の陶器の肌の本然であるかのように仕上げた。文体としては、もっと凝ることも、もっと流暢であることも、可能であったかもしれない。だが然し、とかく人生は忙《いそが》しく、ノート集めや、主題の扱い方の工夫に、これ以上の時間の消費はできかねた。やりようによっては、とことんまで乳房の文体を磨いたり、千差万別なそれぞれの特徴を一々書き現わしたりもできたはずだ。なにしろ、一つ一つが僕の目には見え、一つ一つを僕は味わい、一つ一つに僕は手をふれる思いがしているのだから。一つ一つを造型し、この書以上に、一つ一つをより完璧に、より真実に彫りあげることができたら、どんなに嬉しかっただろうと思われぬわけでは決してないが、それをしていたのでは、この書の出版の機会は、僕から逃げていたかもしれない。  とにかく、乳房に対する渇望を多少とも癒《いや》すに足るものが、この書中に残っていたら、せめてもだ。本物の乳房もついに癒《いや》し得ないそれは渇望だが、それはついに捕え得なかったにしても、この書がその存在の可能性を立証した乳房の求積法とでも呼ばるべきそれは渇望だ。  ああ! なんと、僕ら男性が、心から安堵することだろう、乳房の求積法が発見されるであろうその日!……文体が、言葉のあやが、さまざまなタイプの空想力が、待望のその求積法を見出すのであろうその日、僕らは完全に乳房から解放されるはずだから!  この書は決して春本ではない。この書の中に猥褻は影さえとどめない。在る一種の清浄無垢だけ、感知可能の清浄無垢、人生の園生に垣間見る無数の乳房が演出する光景へのなごやかでそしてほほえましい観入だけだ。この書に人は、世にも高貴な堕落を見出す、それは堕落から救ってくれる高貴な堕落であるはずだ。なぜならそれは、人をより偉大な光明の方へと導く以外のことは何もしないから。結局それによって耽溺の罪をつぐなうことになり、読後|精神《こころ》は浄化され、鮮明な色彩に満ち、深度を加える結果になる。  人間に備わる神話の中で、乳房ほどあざやかなものは他に在るまい、だから僕がそれを暴露《あば》き解明しようとあせるのも無理はあるまい。男性は乳房と一緒の時にだけ成長して来た。男性は一生乳房を待ち続けた、乳房に見放される時になってまでもまだ。あの二つの半球は、全地球のむなしさのすべてを宿しているわけなのだ。裸体を嫌ったりする偽善者どもの母親こそ、いい面《つら》の皮だ、なにしろ奴らの母親が、奴らの父親の前で裸になったという事実が、奴らの出生の機会《チャンス》になっているのだから。  僕が乳房を誘いだす微笑を、楽しさを、陶酔を、ひとつひとつたんねんに、この書の中に拾い集めてみた。乳房ゆえの妄執を、乳房が啓示するファンタジアを、あの二つの美しいシャボン玉が暗示する、千万無量のさあらぬ些事を拾い集めてみた。  在天のおん主《あるじ》にお願いするとしましょう、日毎《ひごと》のパン同様に、乳房という名のこのおいしい果実も賜われかしと、天国にまいりましても、われらにこの果実に事欠《ことかか》せ給うなかれと。それというのも、天国に在る禁断の木《こ》の実とやらは、どうやら苦《にが》いそうですが、乳房の味とくると神秘そのものですから。おお! 乳房よ、多汁、多肉のまろやかな木《こ》の実《み》よ、食用には不向きなくせに、おいしさに際限《きり》のない木《こ》の実《み》よ!  僕らの死語を仮想し、この地上を想見し、乳房には今後絶対に触れ得ないとあきらめる場合、乳房の価値は決定的に増大する、この事実は地上に生き残る奴らが何をしているだろうかと想像する時、何より先きに気になるのが、奴らが乳房とたわむれてはいないだろうか[#「奴らが乳房とたわむれてはいないだろうか」に傍点]という事なのでも知られるというもの。  この書は偶像破壊の書でこそあれ、乳房をもぎとり、こま切れにし、いじくりまわしはするが、破壊の前後にこれとたわむれることも忘れてはいない。この書は乳房を再製もするが、乳房特有の不逞の思い上がりを矯正し、野蛮なその外見を、残酷な持前のその傲慢を、時を選ばぬその気まぐれを、こらしめることも忘れてはいない。  あの不安と初期のわななき、乳房という他人の所有物に、完全に他人の所有物なるそのものに、固有の生命を保持する一人《ひとり》の存在、その人の愛すべき性《セックス》が不治のその特異性を訂正することも、変更することも、癒《いや》すこともなし得ない一人の存在の所有物なるそのものに、手を触れる時の、あの不安とわななき、あれだ、読者がこの書の中に専ら見出すであろうものは、始終本文の行間にはさまって、言葉に一種のぎこちなさを与える結果になっているのは。あのぎこちなさ、あれはまた、新しい乳房に人が初めて手をかける時に感じるあのぎこちなさでもあるわけだ。あの場合男が前途に感じるあきれるほどのあの自信、途方もないあの自信、それがどれほど法外で、突飛で、勇猛で、素晴らしく、また真剣なものであるかを知らずに抱《いだ》くあの自信!  弓術家のように、僕は乳房の的《まと》の中心点をねらう、限定された、そして命中困難なそれは一点だ。だが命中したとなると、いささか手品に似た状態がそこには現われる、つまり矢が的《まと》を射ぬくや否や、秘密の仕掛が堂々口を開くと見るまに、こうまで陽気な結果が生まれようなぞ、予想もしなかったさまざまが一度に生動し初める。紙背に徹《てっ》する眼力がいつの日にか、すべて乳房が内に秘める雄弁なこの生命力を、淫らで口数の多いこの全体を、びっくり箱をひっくりかえしたようなこの饒舌ぶりを、読み取ってくれるだろうか? とにかくこれが、僕のペンが企てた大事業であり、僕のペンが狂おしい熱中ぶりを示すに至った理由でもある。  スフィンクスの謎の最高は、彼女の微笑でも、まなこでも、額《ひたい》でもなく、兩の乳首にある、物質の持つ秘密が、他のいかなる型《かたち》にも定着したことのない姿を見せているあの乳房にある。  僕のこの書は、醜悪な老人どもにも、腹黒い下劣な役人どもにも、鍵をかけた自室に閉じこもって、春本に読みふける連中にも、カーライルのいわゆる、世上最大のくわせものなる似非《えせ》神父たちにも、よろこばれることは多分あるまい。それでいて奴らの全部が僕を春本作りと見なすはずなのだ。なぜかというに、奴らは、この書のおかげで自分達の独善的な快楽がつまらなくなったと気付き、腹が立つからだ、この書の劇的で、思慮深い冷静な文章に腹が立つからだ。  思想の自由となると蛇蝎《だかつ》の如くこれを忌み嫌うくせに、世にも恥ずべき行為を平気でしている世間の奴らが求めるのは、違法で醜悪で、光明からだまし取ったような暗黒でじめじめした肉感なのだ。ところが肉感に添加されるべきはむしろ光明なのだ。こうすることによって、不当に軽視されている肉感の比重を増し、政治の世界で宣伝されるいかなる主義主張より、より以上に革命的な自由主義の承認に役立たすべきなのだ。  自分の精神を、髪ふり乱した、むき出しのままの姿で、唐突にしかも悠々と、さらけ出したりする者は、僕以外には誰ひとりありはしないが、これこそは自由人の、完全に解放された自由人の、真の贅沢な行為であり、僕の一生に支配する主義でもあり、人間に与えられた最高の財宝だと僕が考えるものでもあるのだ。   本もののセーヴル焼の乳房  戸外の明るい光の中に、しなやかな姿をくねらせていた、やせぎすのその婦人が、骨董店の入口のドアを押した。  ――なんのご用でございましょうか? 何か、珍らしい扇のようなものでも、お持ち頂きましたでしょうか?」  婦人が、包らしいものは、何ひとつ持ってはいないと気づき、骨董店のあるじは思った、このご婦人も、どこからとも知れないところから、見事な古扇《ふるおうぎ》を、展らいてぱたつかせると、店じゅうがきらめきで一ぱいになるような見事な扇を、取り出したりなさるおひとりではあるまいかと。  ところが、今日のこのご婦人は、店のあるじに近よりながら、いきなり言い出したものだ、  ――あたくし、本もののセーヴル焼の乳房をお持ち致しましたの」  ――ああ、さようで! ではどうぞこちらへお通り下さいませ」こう言って、店のあるじは、高価な宝石類を買入れる時なぞに使う、小ぢんまりした事務室へ案内した。  なに事にも、びくともしない決意《はら》の見える凛《りん》とした態度で、女はそこへ通ると、ためらいもなく、乳房を出して見せた。  ――セーヴルですか?……なるほど、やはりセーヴルでしょうかなこれは?」骨董商は、花瓶かなにかの、窯じるしでも探がす手つきで、出された乳房を手にとり、ためつすがめついじくりまわした。世にも見事なセーヴル焼の乳房を持ち、窯じるしが傷あとのように冷たくどこに押されているかも承知の婦人が言った、  ――そうですとも。しるしは確かにございます、ここですの」  言われた相手は、老眼鏡片手に、品物の確かなのに、どきっとなり、しばらく茫然としていたが、気をとりなおし、早速、札《さつ》を数えはじめたものだ。  さてその上で、世にも見事で性《しょう》のよいセーヴル焼の乳房の女は、店から出て来た、胸乳のあたりも平らになり、たった一つ残された親の代から家伝の宝物を、只今売ってまいりましたと言いたげな、小ざっぱりした腰つきで。   蛇と乳房  若い母親たちのふところへ、お乳《ちち》を盗みに忍び寄る蛇どもの絵が描けたら、こいつ見事でもあり、さぞ食いしん坊どもを欣ばせようて。匍匐《ほふく》の間も蛇どもは、近づく美味に舌なめずり、突如、頭のさきから尻尾の先きまで、硬直してつっ立ちあがりはするが、紳士の胸のポケットから財布を抜き取る掏摸《すり》の指さきさながら、用心深さも忘れずに、乳首を求め、しゃぶりつく。  やがて好味を満喫した蛇どもの全身は、較べるもののない一筋の快感の糸に貫ぬかれると、今度は奴らの小さな目が、やわ肌の肉の宝物に惚れぼれ眺めいるが、同時に尻尾は、甘やかで、ゆるやかな楽曲を指揮するオーケストラ指揮者のバリトンさながら、いとも楽しげに揺れ動くという段どりのこれは絵だ。   女城主の乳房  お城の冷厳さとは極めて対照的な乳房を、女城主たちはお待ちあそばしておいでになります。  ――わしは、あのいかつい城内で暮らすことになるだろうが、その代り、ひっそりしたお城の夜な夜な、あのお城の女あるじの乳房のやわ肌が、頂戴できるというものだ」女城主と結婚する気になったその男が言っていたものでした。  なるほど、一切の偽善を抜きにし、女城主さまの偽善までもきれいさっぱり抜きにした所に、たしかに百合の球根が二個あったことも事実でした。  ところが在る日、この背の君が亡くなられたというわけですが、未亡人になられた女城主の乳房は、ますます素晴らしさを増すことに相なりましたが、それというのが、それらが有用だった間じゅう、背の君の情念は、束の間の休養もゆるさないありさまでしたのが、今や乳房たちは、快感の最高調、郷愁を知るに至っていたという次第です。  さてこうなると早速、お城につきものの幽霊が、得たりや応と、(こいつ、どこのお城にもつきものですが)現われて、ご後室ぐらしに、何ひとつご不自由あらせられぬようにと、女城主さまのおん乳房を、幽霊ならではの、はげしさともの狂わしさで、いじりまわしたというわけでした。   法衣のかげの乳房  法衣のかげの乳房は、恋慕の情《じょう》に燃えながら悔やんでいます。粗布《あらぬの》の下、乳房は、聖画のそれと似て、色づけし、艶出しした木彫と見えるほどの、おっとりとした円《まる》やかさです。  ここでこの機会に、異種の色とりどりの、乳房を分類し、多彩な女たちの行列を、形成《つく》ってみるのも一興です。法衣のおかげで、こんなおいたが、フラ・アンジェリコの壁画ほど興趣ゆたかな色彩の連祷《リタニー》が、雑作《ぞうさ》なく出来るというもの。  聖女《セント》ルシー教会の法衣をまとう尼僧たちは、唇の紅《べに》をひときわ引立たせる緑のこれは法衣とて、乳首はさながら刈込みのみどりに栄《は》える紅二点、ばらの蕾ということです。  聖心教会《サックレ・クール》の法衣をまとう尼僧たちは、顔いろの蒼白《あお》さをひときわ強め、失い果てた血液をまぎらわす、これは牡牛の血液の色なす、深紅《しんく》のこれは法衣とて、彼女たちの人こそ知らね、心の中の悲劇《かっとう》が思いやられるというものです。  カルメル修道院の法衣をまとう尼僧たちは、コーヒー色の、着る女《ひと》を地味に下品に見せるこれは法衣とて、それかあらぬか明るい一線に彼女たちの腰《ヒップ》のあたりを引締める光沢《つや》美しい革紐を添えもてまとうというものです。  永代救済教会の法衣をまとう尼僧たちは、永久に死なぬこととて、乳房も永代不滅というわけです。  聖ジョセフ教会の法衣をまとう尼僧たち、腰紐は、にせ紫だというわけです。  聖フランソア教会の法衣をまとう尼僧たち、衣《ころも》腰紐双方が灰ひと色、正銘のテバイド女、乳房がほかの女たち以上に辛《つら》げなのも、この法衣独特の平織のとげとげしさの故というわけです。  ナザレ修道院の法衣をまとう尼僧たち、ナザレ色の肌、原始女性の乳房と裸形、ナザレ生れ特有の肌の白さに輝くナザレ女たち、紫と黄の腰紐が女としての存在をあくまで主張し続けるというわけです。  清浄尼僧院の法衣をまとう尼僧たち、これは肉体に若やぎと深いよろこびを与える天来の法衣、見る目にも全容姿を透視する思いをさせるというわけです。  世忘れ尼僧院の法衣をまとう女たち、黒い石棺、黒い腰紐、修道院の奥深く、肉体を亡ぼす覚悟の孤独に徹する決心の彼女たちなのに、法衣の力が一図に彼女たちが愛した唯ひとりなる男性、キリストの、愛の誤りに気のついた多勢の死女たちを生み出す結果と相成ったが、自ら選んだこのような暗黒の中に見る彼女たちの乳房は、まばゆいばかりに照り輝く白い二つの中心であり、汚れを知らずに死んだ女の乳房と異らないというわけです。   天使童子の乳房  ボヘミアの聖都ネポミュックで開催された宗教会議の席上、はげしい論議をまじえて、天使童子《ケルピン》には、乳房があったか否かの問題が、長々と取り上げられた。  原始時代の宗教会議なので、絶対にうやむやには過《すご》しがたい問題の一つなる、天使童子の乳房を、どのように扱ったものかが、今や絵にする必要上、焦眉の問題になった次第だ。あのように美しい声を持ち、あのように高貴な肌色をした天使童子たちには、果して乳房があったろうか? 数人の者は、何も置かずにすますわけにも行くまいから、乳房の代りに、そのあるべき場所に、乳首の味のあの葡萄の巻ひげを小さな角《つの》の形で描くがよかろうと言い出した。  この原始時代の僧侶たち、手づかみで、レタスや花キャベツの芯《しん》まで、豚同様の音を立てて、まくらう連中のくせに、事天使童子の乳房となると、案外、ホワイト・ソース、こってりした味の提言をしたりもした。  ――それは半透明だな。水でもなければ、雪でもない、雲で出来ているというわけだな」ひとりが言った。するとまた、  ――天使童子たちが空を飛ぶ時には、彼らの乳房は清らかな色気を見せてゆさぶれるが、あのまねは女どもには出来はしないな」と、別のひとり。  ――あれは、遠方からも感じるぞ、罪深い生れの拙僧などは、忘我法悦のさ中にも感じるぞ、それというのも、空気を愛撫するので、その美妙なわななきが極めて遠くまで伝わって感じられるのだろうな」第三の僧が言った。  このようにして、僧たちが、われがちに、天使童子の乳房の魅力を強調してやまないなかに、ひとりだけ、反対好きの、見れば身につけた法衣もひなびて、腰紐も荒々しいのが、言い立てた、  ――天使童子に乳房なぞとはもってのほかだぞ。万がいち、そのようなものがあったら、たとえそれが諸君の想像するが如き奥ゆかしいものであっても、ひとはそれに触れるはずだ、聖水盤のふちに触れると同じように、そしてわしらは、この栄光に手が届いただけで、そのまま地獄へおちているはずだ」  この反対論にもかかわらず、天使童子の乳房の案件は、百三十二票対二十票の大差を以って成立した。   天使童女の乳房  それは見事だが、哀れでもある乳房なのだ。  天使童女《ケルピーヌ》はつねに必ず雲の表に鎮座するが、彼女をとりまき、捕えている円周は誰にも超えることの出来ないものだ。  初めて天国を訪れる者は気づく、天使童女の乳房は、噴水池のまん中に立つ犯し難い女人像の乳房に似ていると。  彼女は白ばらに囲まれて立っている、ほとに当てた両手に貞操の三角州を押《おさ》えているが、この黄金の三角州のきらめきには、誰ひとり抵抗は出来難い。  大天使の酪《バター》を肉体にもつ天使童女は――彼女をとり巻くばらの花も蕾のなかに砂糖を包んだ酪《バター》だが――うまみには欠ける、あきらかにうまみには欠けている、素裸のイギリスのブールジョア階級の小娘みたいに。  時々、彼女は歌い出す、永遠の昔から彼女が歌いつづけているあの歌を、そして永遠の未来にまで歌いつづけるであろうあの歌を。  惜しいことには、彼女の乳房は不毛で、無知で、生命力に欠けているが、破廉恥なのも惜しまれる、なにしろあんな明るさに平気でさらされているほどだから! それというのも、実はあの乳房が可能の彼岸で純潔だからだ。  やがて僕らが昇天する日のために、それを用いると、物体に手をふれると同じ作用のあるプリズム・レンズを発明する必要がこれでいよいよ出来たというわけだ。   アンダルシア女の乳房  アンダルシア女の乳房にはオレンジの花の匂いがある、それというのも、時あってふくらむ大きなオレンジの花だからだ。それというのも、アンダルシア女の乳房は、さほど大きくないのが普通だからだ。  アンダルシア女は、小がらで、細っそりしているが、それというのも小娘の頃から、おびただしい絶美と機知を発散しつづけて来たからだ。それにまた、世間の人たちは、むやみやたらに言いふらす、〈麗わしのアンダルシアよ! おお、アンダルシアよ!〉、こうしてありとあらゆる口々に、世にも厚意に満ちた口々に、言われ続けて来たおかげで、アンダルシア女たちは、すりへってしまったからだ。  代表的なアンダルシア女を語るなら、先ず敏捷だし、お祭の人気をひとり占めするのも彼女だし、一座の人たちがひとり残らず言葉をかけるのも彼女だということになる。やせぎすで、きついコーセットでもつけているかのように、ぎゅっと肋骨に締めあげられ、顔いろは浅ぐろく、神経質な顔だちで、生れてこのかたよくもあんなに笑って来たものと、よくも始終寵愛されて来たものと、びっくり仰天の恰好だ。  カーネーションの茎ほど細っそりして、髪にカーネーションを飾ったわがアンダルシア女にあって、乳房となるとこれはまさしく不可解だ、口のためなるささやかな一輪の花と言おうか。  ――オレンジは果実《くだもの》よ!」と、彼女たちは言うのである、わが身のそれはオレンジの花だとしって、安んじて。  ところが、中年に及ぶや、乳房は熟し、若盛りの頃のそれとは全く別種の第二の青春とも呼ぶべき姿になって人を驚かす。あんな痩せ鰻にどうしてこんな豊満な乳房が……と、人はあきれる。ところが、彼女たちに言わせると、  ――この方がよかったのよ、最初からボインでは、今ごろは疲れてしまっていましょうから」   美術の乳房  美術の乳房はおぼつかない。絵画は乳房に真実性を失わせ、絵そらごとにしてしまう。  つつましやかな乳房の処女がひとりここにいるとする、彼女の乳房は、匂い林檎のようでもあり、一輪の百合の花を活けたクリスタル花びんのようでもあり、しかもその花びんたるや、クリスタルらしく砕けることはせずに、タルクの粉末のように崩れる、実験室のフラスコを思い出させるほど微妙なフラスコだったりするとなると、絵にはなかなか現わせまいて。ボッティセリーの描く女の乳房は、いかにも、彼女自身に対する情慾を彼女たち自身に起させそうな乳房だという気がする。  クラナッシの描く乳房は、あくまでも、ゴチック時代の無知なくせに挑発的な女たちの乳房にほかならぬ。  ヴェールにおおわれて描かれている乳房は、多くの場合、裸の乳房以上に魅惑的だが、円い襟ぐりのデコルテ姿の、レオナールの場合がそれだ。  だが、最高に真実性のあるのはチントレットが描いた乳房だ、この画家は愛人をモデルにしていたのだが、むき出しの場合もあり、または胸衣《むなぎ》と乳房の間に、みどりの桑の葉を一枚はさんだ場合もあるが、これは乳房に浮上りと新鮮さを附加しようがためだ。  チントレットは、完全着衣の愛人が数々の肖像画の為めにとるポーズに見惚れて、時間を空費するばからしさは望まなかった、他方また眼福も失いたくなかったので、彼女の一方の乳房を覗《のぞ》かせることにしたが、これが人も知る、これ見よと言いたげな田園趣味の裸身を見せるあの飽満な美人のふくよかな乳房なのだが、画家はこれを、引出し、永遠に人目にさらしたというわけだ。彼は言っているもののようだ、  ――わたしの可愛い子ちゃんのこの恰好をごらん下さいましたか、全身で表明している風情ではないですか、この世に於ける彼女の唯一無二の使命、つまり枝折《たお》って頂くというあの使命を」  絵画に現われた最高の乳房は、プラド美術館にあるチントレットの愛人の乳房だ、ニスの匂いとニスを塗る念々の筆勢の執っこさのゆえに琥珀いろにも、銅《あかがね》いろにも見えるあの乳房だ。  アフリカ近いマドリッドの明るい太陽のもと、歳月と共にこの乳房は、いよいよ成熟し、ますます美しさを増して来たが、毎日、午前の楽観主義を存分に吸収し、世事の一切から解放され、ということは、この乳房にとって、国王さまのご死去も、美術批評家の死亡も、何のかかわりもないわけだからだ! プラド美術館は毎朝、これと同じ美術の楽観主義を一ぱい包蔵して開館する。今にも死ぬようなせっぱつまった気持で過していたあの頃の僕の毎日に、あの館内の眺めが、何んと力強い支えになってくれたことか!……あの頃、僕は自分に言い聞かせたものだった、諦めて、いつなん時でも死ねる覚悟の落着いた気持ちで、〈だが今日もプラド美術館は開館するはずだ、あの思い鉄の鎧《よろい》戸を開らくはずだ、美術館独特の澄んだ自由な光線を一ぱいに満たして!〉  チントレットの愛人の乳房に溢れるあれも、実はこの温情のある甘やかな午前の光線だった、わが家の食器棚の上の果実籠《くだものかご》同様、そこには常に新鮮な果実が見出された。  ところで、画家ヴェロネーズの『虚栄』の乳房はまたどうだ!  ところが、リュベンスの乳房となると、これはいよいよもって作りものという感じだ、飽満なくせに、しかも引き締った乳房が持つあの気品がない。リュベンスが描いているのは、無気力な、肌の白すぎる、骨も軟骨も全部抜きとってしまったドイツ女の乳房だ。描かれた彼女たちにあって見事なのは、身ぶりだけだが、中でも、両腕を組んで、そこに出来た小さな玉座に乳房を載せている、あのひとりが特に立派だ。  ゴヤの乳房となると、これは優雅で控えめだ。貴婦人たちはどなたも、ゴヤの乳房をお持ちだとご自慢なさるがよろしい、なにしろこれは、本場パリの高級《オート》クーチュール、ウォルツとパッカンの両店が、今もって、ご用を承っている乳房だから。  ヴェラスケスの乳房は固すぎる、そしていささかお下品だ。  ワトーの乳房は|火祭り《サン・ジャン》の夜の小さな洋梨。  グレコの乳房は舌平目、ころがっている三角定規、短刀で突き裂いた乳房。  ベルギーの画家トニエのそれはバラ色の南瓜。云々……云々……と、いうわけだが、しかし、僕は諸国の美術館の部屋々々を駆けめぐり、こんな調子で書き続けることはよそう、冷淡な分類学者とまちがえられたくないからね。  絵画の乳房は、なんと工面をしてみても、結局なんにもならず仕舞いさ。無力なんだな。本ものの乳房は妖気で一ぱい、つまり絵画では間に合わないというわけだな。乳房はやわらかでなければならない。だから彫刻では間に合わない。乳房は生き生きしていなくてはならない、だからあらゆる造形美術では間に合わない、せめて乳房が一番よく似たものなら、林檎と海綿があると知るのが関の山かも知れないな。   乳房島  すばらしい乳房たちが住むゆえに、乳房島と呼ぶにふさわしい未知の島が存在する事実は疑うべくもない。  島じゅう到るところ、森の奥と言わず、湖の上と言わず、すばらしい乳房の女たちが住んでおり、孤棲《ひとりぐらし》の乳房が花と咲きかおっているというわけだ。  この島の乳房たちは、すばらしい光沢の巨大な真珠さながらの、世にも完全な、世にもばら色の光を放射する巨大な真珠さながらの、硝子鐘が島全体を包むその中で棲めるようになっており、この真珠鐘の中たるや太陽の光がやんわり濾され、夜も変らぬというわけだ。  乳房島では、裸の女たちがいくつかのグループを作って生活し、乳房そのものが各自の胸の上に描く首かざりの美しさに魅了され、お互に心をひかれ合うという仕組みになっているわけだ。各自がそれぞれ相手の乳房に見惚れるだけで事は足り、男性を必要としない、こうした乳房ごっこだけで十分な満足が得られるのであり、小娘たちが硝子玉でするあのあそびを思い出させる。  時々彼女たちは、お互の乳房を打合わせるがこれが彼女たちの全身を一種無上の快感に満たし、狂喜させる。  多情多感な大サフォーの化身、月輪は乳房島の中天に、完全に垂直な体位でいざよい、島の草原に寝ころがるいやが上にも完全な乳房の女たちの上にかがみ込み、自らの視線をぴたっと乳房に向けて動こうとしない。  なんと月が、念々にこころをこめて、勃起した乳首でいっぱいな草原に、白濁のひかりをそそぎ続けること!  乳房住むこの極楽島は、満ち足りた孤独な生《せい》を生きている。これこそが、真の内生活であり、特有の美に奉仕する女たちが、どこかで必ず生きている筈の人生だ。乳房でふくらんだこの島の遙かな影響が、全世界の乳房すべての支えになっているわけで、万一この島がなかったとしたら、美しい乳房は男どもに征服され根絶されつくしているはずなのだ。今や地球上、この島だけというわけだ、美しい乳房が、当然与えられる天与の権利を享楽し、日に夜についで、豊年おどりを踊ったり、長夜の宴を楽しんだりして生き続けているのは。   乳房木琴の演奏者  見るからにはしこく抜けめのなさそうなその男は、常日頃から夢想していた、乳房から音楽つまり、ポリフォニーを発見出来ないものだろうかと。そして思うのだった。  ――乳房の一つ一つは、それぞれに音楽的なニュアンスを内蔵しているわけのものだ」と。  彼が、フロック・コートの内ポケットから、小型の槌《ハンマー》をとり出して、女たちの乳房に小さな打撃を与えると、女たちは心から感激する様子を見せた。歯科医が患者の歯列を打診するあれのようでもあり、新しいやり方で内科医が僕らを診察しているとも見えた。  ――完成する必要があるのは、槌《ハンマー》の方だ……。乳房内には立派な音響が充満しているのだが、むずかしいのはそれを引出すことにある……。だから完成しなければならないのは、槌《ハンマー》の方だ」  やがて彼は、槌《ハンマー》を完成し、これを用いて、世にも甘やかな音色が特色の理想的な楽団を形成するに至った。  彼は、特殊な乳房を所有する女たちを、一列に並べた。そこには甲高い声の乳房、騒々しい音の乳房、上ずった声の乳房、野生の山羊の角のように気まぐれな乳房から、深味のある低音部を形成する為めの豊満な乳房、だらり垂れ下った乳房、さてはくそまじめな乳房までが、ずらり揃っていた。女たちの中には、まま、右または左の一方が、せっかく配列された音階を乱す種類の異様な音いろを出すがため、使用出来ないものもあった。槌《ハンマー》は、このような厄介|乳房《もの》は、よけて通った。  彼女たちの音楽の胸せまる抑揚が、あたかも彼女たちの心臓から生れ出るかのように、きまじめに我慢強く従順に、彼に向って捧げられた乳房群に立ち向う、この名木琴演奏者の姿が、なんとすばらしく見えたことか! 時々、楽曲が長くて激しかったりすると、特に激しい攻撃を受ける乳房の持ち主の絶頂音を繰り返し発《だ》しつづける右や左の乳房の持ち主なる女の顔が、苦痛にひきつることも、まま、なくはなかったとさ。   大伽藍の乳房  世にもあるかぎり乳房の最大のもの、僕はそれを或る大伽藍の中に見た。それは正確にはセゴヴィアの大伽藍の中にある。僕はそれをツーリストたちに見せびらかす、すると彼らは、こんな途方もないものを、場所もあろうに、大伽藍の中に見て仰天する。この大乳房に気づくと、人は考える、やはりこれは、信心深い巨大なひとりの娼家の女将が、この寺の中に住む全部の幼児キリスト像に乳首をしゃぶらせようと、大袈裟に胸をはだけた姿かも知れないと。  その乳房は、特にメキシコの人々に、大そう深く信仰されている聖母像のそばに安置されている。それは片一方しかなく、いかにも祈願のための奉納物らしい恰好で置かれており、様式は高浮彫りのようだ。しかもこの礼拝堂内の引出しの中に、紫衣や小道具を仕舞って置く教会参事会員たちも、この見捨てられた恰好の乳房は、見て見ぬふりをするしきたりになっている。  いま見るこの蝋細工は、売淫の肉のみじめさ丸出しに、黒ずんで、よごれ果てている。腐りかけて来たかた方の乳房の代品の製作を依頼に来た堂々たるその娼家の女将にしみじみ眺め入った上で、乳房作りの男は、あいにく在庫の乳房には、彼女のそれと見合うような逸物は一つもないので、特別に一個お作りすることに致しましょうと答えざるを得なかったという。こんな次第で彼は世界最大のこの乳房を、大伽藍のこの乳房を、高壁にはりつけたこの乳房を、建築物としてのこの乳房を、製作したのだという。  僕としては、この悪魔的で孤独な乳房の存在を知って以来、どうやら大伽藍の影までがこの大乳房の魅力に心を乱されているという気がするようになって来た。そのために公園などで、肉づきのよいご婦人たちが愛児に授乳する場合にされるあのように、レースのハンカチかなにかでおおって置くべきだと考えるようにもなっている。  おお、大胆きわまる乳房よ、時間の流れに抵抗しつづけ、やがては次第にその蝋が大理石にもなり変りそうな乳房よ!   アベイ地方の乳房  インドの国アベイ地方の習慣では、女子はすべて、発情期に達した最初の日、赤く塗られて田園に向って放出され、最初に行き会った男に手なずけられる運命《さだめ》になっており、女の乳房は、赤線入りの黄いろに化粧されている。赤線は放射線状に描かれているので、乳房はとかく射的の的《まと》に似ることになる。ここアベイ地方では乳房は全部が幸福だ(この地方には、立木《たちぎ》はただ一種類しかなく、幹を短刀で突くと甘い泉が流れ出す)。  完全に美しくしかも幸福な乳房が、世界のどこかに必ず存在するはずだった。果してそれがこの地方に存在したというわけだ。退屈な時間のタバコの煙の輪の中から飛び出した。これがその乳房の幻だというわけだ。   右乳房と左乳房  右乳房は心臓の乳房。心臓が中にすっぽり、箱に入った恰好で、やんわり大切そうに納まっています。左には右より活気があります、ために人は、いつも先ずこれに呼びかけ、これに言い寄るというわけです、手は乳房と心臓をいっしょに持ちあげ重量を計ります、やわらかい乳房、やさしい心臓。  女たちが、  ――こちらはどうなのよ? 忘れちゃ駄目じゃないの……。こちらも撫《な》で撫でしてあげてね……。だってかわいそうじゃない!……」なぞと、言ったりするのも、そのためです。  右のは、いくぶん死んでいて、幾分冷たいようです、人が好んで撫《な》でる乳房とは、ちとちがうようです、これは不幸な少年です、愛撫に近づきたくて、嫉妬する少年です、与えられる資格がないまま、得られないまま、同情を求め、ため息をもらしながら、じっと人を見つめている少年です。でもやはり、人は一方を思う時、他方もあわせて思います、一方を愛撫しながら双方を感じ、双方を楽しみます。寵愛される乳房を、見捨られた乳房が後援しているというわけです、こちらは消費しない財産です、言わばこれは手をつけない貯金のようなもの、人はひそかにこれを大切に、頼りにしているというわけです。  左乳房の中に、人は心臓の鼓動を感じるわけではありません、もしもそんなことがあったら、それは我慢のできない、ぞっとするほど怖ろしい事のはずです、握った手の中に、小鳥の心臓のなまぬるい鼓動を、小さな小鳥の胸のあわただしさを感じる時の、あのおそろしさと同じなはずです。逃がしてやらずにはいられますまい。別です、心臓の乳房の中にあるのは、生きた親愛感です、死がそこにひそんできることも、死の可能性が、死の予告がひそんでいることも事実ですが、そのため余計に人を熱中させるわけでもあります。  左乳房を愛撫されると、女は、何となく自分の宿命を守護して貰っているという感じを受けます、彼女自身も知らないまま、そこに宿ることだけは確な宿命を……。そんなわけですから、左乳房を愛撫に任せていると、何やらこの乳房にひそんでいて、燃えあがり、煮え立ち、彼女自身を乗りこえ、彼女を征服し、やがて動かしがたいものになるはずのものに、自分が犯されつつあるという妙な気持になって来ます。  なんとこの乳房がおびただしい迷いに、疑いに、推量に、剣先きに、貫らぬかれ続けて来ていることでしょう!  これを与えながら、彼女たちが、  ――さあ、どうぞ……。中にわたくしの知らない刺《とげ》がささっているらしいんですの、なにをしっかりなかに包んでいるものか、わたくしにも分りませんの、治しておやり下さいませ、わたくしの宿命がとげられますように、これに勇気をさずけておやり下さいませ。この乳房から先きにわたくし死んで行く筈ですの……。わたくしの死に、やすらぎをお与えになって下さい……」と、こう、訴えているような気がするのも実はこのためなのです。   尼さん達の乳房  尼さん達の乳房は、内側にまくれているような、凹面乳房であるような、様子《ふり》をしている。  尼さん達の中には、茨《いばら》の冠《かんむり》をつけた乳房、爪で引掻いた傷あとだらけの乳房をしているものもある。そうかと思うと、乳房を太い紐で締めつけて、胸に結びつけているものもある。  尼さん達の中には、自分たちの乳房を、女であるという事実に対する告訴と感じているものもある。悪魔達がつけ入って誘惑する盲点がここにあり、彼女たちが望むと望まないとに拘わらず、敷布団なしのベッドに横たわる時に、その存在の証拠を見せつける。  彼女たちは暗いところで脱衣する、にもかかわらず、彼女たちの乳房は闇中にかがやいて、どこのすきまからも光線の入らない部屋にあって、なおかつ光り続ける鏡のように、庵室内を照らす。  そうだ、まっくらがりの部屋の中で、裸の女を前に、感光度の高いフィルムを露出する実験をしてみませんか、乳房の暈《かさ》が写っていようというもの!   彼女には乳房がなかった  彼女には乳房がなかった、あの双方からの落合い、女の品さだめをしようと男の視線が集中するあのささやかな運河、あれのあとかたさえもなかった。  それなのに、彼女もやがて、デコルテの美服をまとい、気がかりなあの落合いを見せびらかさなければならない年ごろになったこととて、羞かしい思いを重ねなければならなかった。彼女の胸郭は、女装して舞台に立つ奇術師のそれであり、女優の役をする男優のそれだった。  パリの美容研究所へ彼女を連れて行く必要が是非あった。研究所では、あらゆる物体にシャボンの匂いがし、あらゆる鏡を最上のセーム皮が、ぴかぴかに磨きあげていた。  乳房のない女が、身の悩みを訴えた。  ――これには内科的治療が必要です」研究所長が言った。「しばらくこの丸薬を用いてごらんなさい」、こう言って彼は、流行おくれの、とても呑みこめそうもない、巨大な丸薬の一ぱい詰った容器を渡した。  三ヶ月たっても、乳房が芽を出さないと見るや、所長が彼女に告げた、  ――実はあなたには、乳房の種子をと思って処方したのですが、今までにどうしても乳房の新芽が出てくれないというわけですが、この上はせめて、あの乳房の落合いだけでも作って差上げましょうね、ピストルの標的によく使われるあれですが、あれだけは是非必要ですものな」  所長はいきなり、鋏と金槌を両手にするや、早速、乳房のないその娘さんの胸骨の上でトンカチ、コツ、コツとやり出したが、こうしてそこに、美妙な凹み、胸の広場に人の気をひくあの乳房のきざしを作り出すのに成功した。  それ以来彼女はデコルテの胸にうねる、あの気がかりな、なだらかな、乳房の落合いの線を見せているわけだが、彼女に結婚が出来たのも、実はこれのおかげだった。   海水浴場の乳房  海辺の、わけても夏の海水浴場の乳房は、とかく、へこみがち、ひきしまりがち、局限されがちだが、理由は、海のシャワーが乳房を押える強力なゴム製ブラジャーの働きをしてくれるからだ。海のシャワーが、乳房たちの狂《くる》おしさを、ひと目でそれと知れる男性へのあこがれをのぞかせるあのでれでれした、だらしのない恰好を、僅かに制御し、引きとめてくれているわけだ。  いずれにしても、海水シャワーの作用がなかったら、乳房たちは、いやみで、くだらない、魅力に欠ける、塩鱈の乳房になりさがってしまうはずなのだ。  海水浴場の退屈で一ぱいな夜のダンス・パーテーに集る女たちときたら、水浴びとテニスのやりすぎで筋肉の萎《なえ》てしまった、油紙かなにかで作ったような、単に思いあがりが目立つだけの乳房を見せてくれるだけ。  馬鹿みたいな正午の食慾が海水浴の人たちを呼び立てる時刻、砂浜の小径《こみち》からぞろぞろと行列して、昼めしにありつこうと急ぐ、海が魅力を失わせた乳房たちの卑しい厚かましさを見た時以来、僕は海水浴場がきらいになった。  海水浴場の乳房たちは、専ら幻影を与えるだけの嘘つきだ。この幻影を餌《えさ》に、青と白の娘さんたちは、毎年彼女たちを気乗りのしない海水浴に連れて来てくれ、彼女たちの鼻もちならない愚劣なエゴイズムを満足させてくれる学生を見つけ出そうと夢中だ。   愚劣な乳房  ひと口に、愚劣さで出来た乳房とは言うが、これにも種類があり、愚劣さで一ぱいなのもあれば、愚劣さを発散するものもある。  愚劣な女たちから、愚劣な乳房をもぎ取ってやったら、さぞ気持ちのよいことだろうて! 彼女たちを納得させるに長い我慢が必要だろうが、結局人は待ちきれずに、口ぎたない悪態をつきながら、女たちの愚劣な乳房をもぎ取る結果になるだろうが、もとはと言えば、愚劣さに復讐しているわけだ!  普通、愚劣な乳房は至って小づくりだ、なぜかというに、大づくりの乳房が愚劣な場合、大きさが、愚劣から救ってくれる。  それは小づくりだ、そのくせ、散歩の時の、あの、われこそは世界一、唯一無二の乳房でございと言わんばかりの思いあがりはまさに見もの。こんなのはピシャリ、気持ちよう叩きつぶし、さてそのあとは、一目散、逃げ出すに限る。  愚劣な乳房の持ち主たちは、興味ある何ものもそこに詰める才覚を持たなかった、僅かばかりの理知さえも、ちょっぴりの本能さえも。彼女たちは、無味乾燥なものだけしか、下品愚劣なものだけしか、詰めて置かなかった。にもかかわらず愚劣な男どもは、ことごとく愚劣な乳房を追いまわす。  愚劣な乳房とて白痴女の乳房では決してない、この方には少なくも野性的な魅力があろうというもの、おいしい果物をみのらせるに理知なんか、さらさら必要としない果樹さながらの、自然にそなわる溢れるほどの魅力があるというもの。  愚劣な乳房には、愚劣さ特有の不在がある、つまりあれは、単なる肉塊でしか、無意味に垂れている、ぼろ布《きれ》でしかないというわけ。   親切な乳房の巨女  十分に乳房をと希う僕らの欲望の、一つの果しが、巨大な乳房にたどりつくというわけです。  親切な乳房を、押しつぶされても平気な乳房を、添え伏し用のベッドさながらに、男ひとりくらいならその上に寝起きのできるほどのすばらしい乳房を、持った巨女が、どこぞに必ず存在している筈でした。  果して巨女はその大峪谷のさなかに身を横たえていたものでした。彼女の微笑は慇懃です。彼女は腰までの下半身を包む服をまとっていましたが、これを用いなかったとしたら、両脚は怪物に、セックスは世にも恐ろしい奈落に見えたはずでした。巡礼者の長い行列が、彼女の乳房の方へと道を辿っておりました、そして他の巡礼たちは、早くも彼女の乳房の上に膝まずき、礼拝祈願しておりました。或る者は、両の乳房の谷合のくぼみに身をかくし、わななきながら、熱で黄いろくなるほどにのぼせ、夢中になり、そこに身をすりつけておりましたが、これは小さな乳房が原因の不安症、どきつき症の治療をしている人たちでした。  この巨女の乳房にも、月の引力の影響で、海同様、潮《しお》の満ち干《ひ》がありました。おお! 豊饒で盛《も》り沢山な乳房よ、凝結した瀑布よ、僕らを永遠の休息へ導いてくれる沈静力ある乳房よ、満腹感に至らせる圧倒的な力を持つ真実巨大な乳房よ、空しく僕らが尋ねつづけて来た乳房よ(またしても空しかったぞ)、胸衣の下のいつわりのふくらみに過ぎなかった乳房よ(またしてもいつわりだったぞ!)。   めざめ  時々、いや度々かも知れないな。彼女たちが護身用に持つ刺《とげ》で、男が手に怪我をすることがある。無理やりに、誰よりも先きに、いの一番に、彼女たちの乳房を握ろうと企らんだりするからだ。傷ついても、男はしつっこくて、あきらめない、男はまたしても握ろうとあせる、そしてまたしても傷を受ける。  この最初の探検家が実は、彼女たちの乳房を発育させた功労者であり、目醒めさせた恩人であり、疑いもなく彼女たちはその乳房を、鋭い新生の刺《とげ》に傷ついた唯一人、その男のおかげで持ち得たわけだ。ところが、こうした忘恩の乳房たちを、決定的に所有し堪能するのはこの男ではなく、後来の別のひとりだ。だからと言って、先きの男はなにも落胆するには当らない、人生が彼に代って復讐してくれる。彼の愛撫が発育させたその乳房は、その後の愛撫でおとろえ始める。   秘密  なぜだかその理由は不明のまま、身近か女に惚れ切っている男が世間によくあるが、実は力強い秘密の理由が彼を引きつけているのだ。その秘密の理由が彼をとらえて、女を包み、庇護し、変哲もない服の下の彼女の肉体に、近眼の人のように目をすりつけさせるのだ。  その秘密というのが実は女が、その男以外に乳房をひたかくしにかくしている事なのだ。そのかくし方というのが、或る時、田舎出の婚約者の乳房に僕が発見した予想外の魅力のようなもので、小さく折りたたんで、固く締めつけ、ひたかくしにかくされており、おかげで血行が阻害されるほどだった。発見と言ったところで、たったこれだけのこと、生気に欠け、病的で、寒むざむとした事実だったに過ぎないのだった。  つまり彼女の乳房は、日本の丸型提灯のように折りたたまれていたが、一たん蝋燭に点火し、ちょっと引っぱると、忽ち光りの球体に変ったというわけだ。  自分の妻が、誰れにも享楽することのできない宝物を秘めていると知る男は、大方は与えられた仕事に満足している男たち、即ち模範官吏たちだというわけだが、彼が自分の所有する乳房が、他の男たちに対して優越感を与えてくれるのと、一日の勤務を終えて帰宅するや其所に誰れひとり知る者のない乳房が待ってくれるというだけの幸福な生活に、十分満足しているからだ。この男を、人は阿呆あつかいもできるはずだ、こんな男には目さえくれない人だってあり得る、だがそんな軽蔑が、彼にとって、何の重要さがあろうか? 彼には皮肉たっぷりな眼《まなこ》で、世間の組織の猿芝居を堪能することだってできるわけだから。ひたかくしにかくされた妻の乳房が、彼にとっては、あらゆるものの代償なのだ。彼にとっては、人生の、芸術もロマネスクも、妻がふところ深く秘めている人知れぬ、そして一番親しい友人にも秘めて語らない肉のふくらみに帰納されるというわけなのだ。   朝食をとってくる女たちの乳房  僕が言いたいのは、女中たちか、或いは、娼婦もどきの女たちのことです。これ以外の女たちと来たら、朝の起きぬけ、ふた目と見られぬあのいやらしさ、――わけても信心深い女ときたら――十分に洗い流さなかった尿瓶そっくり。  だがしかし、朝の起きぬけから美しいあの女たちの全部が、わけても特に愛する男にわが身を捧げつくして奉仕するたちの女たち、階下《した》へ降り、男の朝食をさがして来てくれる女たち、彼女たちこそ、男の気にも入り、心もとらえる女たちだというわけです。朝寝|髪《がみ》、胸のはだかり、はっきり区ぎられた左右不同の押しつぶされたままの乳房、あれは密室の乱れたままのベッドに並ぶ、二つの枕という見立《みたて》でしょうか……。   乳房のヘレミヤ哀歌  彼は泣き悲しんだ、大方の乳房が疎遠になり、感じがにぶり、及びがたくなった事実を。  ――おお! 灌《そそ》がれずに終る密閉された香油《においあぶら》のように、落ちぶれ行くに任せて平気でいる不実な乳房よ!」  ――おお、乳房よ!」こんな調子で、悲歎にくれ、泣き続けた。  時々、乳房のヘレミヤ哀歌は、絶望の叫びを立てた。  ――けちんぼ乳房め、憎っくい乳房め!」  そのまま彼は、いつまでも泣き続けた、寄せてはかえす波音をとぎらすのは、口から洩れるため息だけだった。   別荘の乳房  田舎の別荘ぐらしの乳房は、朝食のパンのやわらかいなかみ。  別荘の寝室で乳房は乳房に戻ります、オレンジの花のかおりのする大ぶりのオレンジの花とも見えて。  別荘ぐらしの乳房は、兎小屋の中の白兎。  乳房は、時々、さし込む朝の光りに糊づけされ照りを増し、暮れがたまで乱れっぱなしのベッドに居つづけたりするが、となりの遠い田園生活のこれも気楽さ。   人魚の乳房  人魚の乳房は魅力的に光っていて、水がたらたらしたたる仕組の、噴水さながら、乳首から流れる細い水脈《みお》がひと筋きまってきざまれていました。たえず濡れているので艶がよく、八本の反射光が、優美でほのぼのとしたふくらみを、一そう引立てていました。それには、海藻のあの強靱な性質と、腹立たしいほどの執拗《しつっこ》さと光沢があり、砂浜で一たん拾いあげたとなると、いつまでもつきまつわり、役にも立たないと知りながら捨てかね、愚かにいつまでも持ち続け、いつしかそれを食べて見たいという気にさせる、あの性質がありました。荒いくせに、ぬるぬるな、海藻の女らしいあの性質が!  海に住む大蛸が、好んで人魚の乳房には吸いつきました、そして押しつぶし、絶対に離れようとはしませんでした。  人魚の乳房は膃肭《おっとせい》の乳房に似ていて、なんとなく肉感的で、充実していて、ふくよかです、平手で叩くと舌打ちに似たやさしい音が出ました。手にとると、手のひらに乗せて自分を計る魚みたいに重く、片手に一つずつ、どっしり重く、金属的で、そのくせ軽く、つねると手答えがあり、絶対にへこみはしませんでした。あまりにも強情なので、つねる方の男が、先きに手を引かねばならぬ始末でしたが、乳房を許された人間の女に対する以上のこれは嬉しさでもありました。  アメリカの乳房  北アメリカの乳房は変哲もない。南アメリカとキューバの乳房の中には、果物として大いに興味あるものがままあって、特殊なそしてすこぶる美味《おいし》いパインナップルの味のするのがあるかと思うと、砂糖黍《シュガー・ケーン》の髄でできているのがあったりする。それらの殆んど全部に、若さのさなかに、はやくも褪せがきざしているものの、そのくせ味のよいことは大したもので、女としては、ちと熟《う》れすぎているものの、まだ一部分|美味《おいし》いところの残っている、果物みたいによい味を保持しているというわけです。  垂れ乳房の若い娘  垂れ乳房《ぢち》の若い娘さんは、その垂れ乳房《ぢち》のおかげで、大そうな重要性を持つことになる。彼女はそれを成熟した女の乳房として人前に曝《さ》らす。それは彼女が外出用に身につけた母親の乳房だというわけ。これをわがものにする幸運な男は、ぼうっとなって、手をふれるというわけ、成熟した女の乳房にふれる気持になって。こうした事の次第で、彼女は自分と同じ年ごろの男たちに対し、偉大な能力を持つことになり、彼らより以上の事を知る者として、より成熟した者として、つき合うので、彼らの全部が、狂おしく彼女を恋することになるというわけ。   煉獄の死者たちの手がもとめるもの  煉獄の手たち、つまり燃えさかる烈火の中から、生きた火炎のように、苦しそうな恰好で差出される死者たちの手は、乳房の爽かさにありつこうと、求め、願い、あこがれて差出される。つまりあの手のすがたは、乳房を乞い求め、指ざすそれなのだが、それというのも、この世の中に存在する何ものにも増して、乳房が彼らの焦げつくような渇《かわき》を、怖ろしい乾燥を癒《いや》してくれるからだ。哀れな死者たちの手のひらがまねるあの胎貝《いがい》の形は、とりもなおさずまた乳房の形でもあるというわけ。   玄関番の娘たちの乳房  おお! 玄関番の娘たちの可憐な乳房よ! ポーチのみすぼらしい暗がりに、地階の花――地階宮廷の花――として生れでた乳房よ! 見るからにぞっとするほど蒼白い、大空と外界の光輝に対するあこがれに、みじめに悩む乳房よ!……手づくりのブラウスのかげの、玄関番の娘たちの乳房ほど、郷愁に満ち溢れた乳房は他《ほか》にない……。それは残飯で、近所にお住いの令嬢たちの乳房の余り切れで、作られた乳房であり、小ぢんまりとまとまっていて可憐ではあるが、どのみち単なる廃品でしかないかもしれないが、さりとて十分に人間的で、見よう見まねの洒落っけも十分な玄関番の小娘たちが、門口《かどぐち》の柱にもたれ、じっと往来を眺め、自分というこのよごれた白い花に興味を寄せ、一度ならず二三度も振返って行くその男をじっと見つめる姿は、胸もとに蕾の乳首を秘める玄関番の小娘ならではの、ものの哀れがなくもない。うつむき勝ちな蕾たち、開らく日のない蕾たち、咲かずにしぼむ蕾たち、蕾のままいつまでも生き続ける蕾たち、それというのも、ひとつには蕾たちの内部《なか》に、より以上のものに対応する力がないのと、蕾たちの懊悩《なやみ》があまりにも悲惨すぎるので……。  おお! 玄関番の娘たちの乳房よ! 人に驚歎の叫びを立てさせる乳房よ! なにしろこれは驚歎に値する乳房ではある、欠けた植木鉢の中に、いつも日陰に置かれている植木鉢の中に生れたくせに、これはしゃにむに生育を希って来た、存在しようと望んで来た、勝ち優ろうと努めて来た、世間を騒がせてやろうと目論んで来た乳房なのだ。品質劣等な乳房ながら、時おり異様に飾立てるので、激しく自己を主張するので、これ見よがしに自分を見せびらかすので、手なずけやすい乳房にはなりたくないと思いながら、いつしか手なずけやすい乳房になりさがっている乳房同様、急にどんな乳房にも増して気むずかしい乳房になりきっていたりする。  玄関番の娘たちの乳房は、一日のうちの或る時間、家事用のみすぼらしいブラウスのかげにかくれる、朝仕事のブラウス、乱れ髪に似合うブラウス、褪せた白さ、よごれた白さのブラウスのかげに。そんな時、彼女たちの乳房は、より一層のみすぼらしさを感じさせ、より一層のおちぶれようをただよわせ、よりぐんにゃりしぼみ、より一層の不運な生れつきを思わせる。そしてその事が、彼女たちの乳房が奇蹟による存在であり、どのみちよごれた宝石であり、日陰の宝物であり、運命の不公平をよりまざまざと感じさせるというわけだ。   ワルツの時の乳房  乳房たちが活気づくのは、特にダンス・パーテーで生来の熱気を取返えし、自発的に興奮《こうふん》し、軽い触れ合いが、彼らのために完全な意識を取り戻してくれる時です。軽い触れ合いの感触は、実は乳房たちのあるものにとっては、惜しいことに、より密接な触れ合いによって失われていたものです。  公設のダンス場への道筋を指《さ》し示してくれるのは乳房だというわけです、そこへと急ぎ、そこへと運んでくれるのは、もちろん脚には相違ない。だが、乳房となると、これは磁石のように正確な方向を指示し、ダンス場へ行きたい一心に駆《か》り立てられて、同行の親たちよりひと足先きに劇場へ辿りつく少年たちそっくりです。  ダンス場へと急ぐ乳房は、耳より先きに音楽を聞きつけ、女主人《あるじ》のゆるやかなローブの中で、早くもリズムに乗っています。  ダンスの感動は乳房にとっては一番甘い感動です。乳房が自分の食慾を、あわせて他人の食慾を感じるのは、特にこの時です、乳房がむずがゆさでふくれ上るのは、特にこの時です。  ワルツしている間じゅう、乳房は、パートナーの男性の胸の上に、白鳥の首の恰好で、やすんでいます。  ワルツしている間じゅう、女にからみついている男たちは、どんな思いごと以上に強く、思い続けているはずです。  ――自分はいま彼女の乳房を、近ぢかと抱いている……。自分は彼女の乳房をわが身の上に乗せている……。乳房は軽く自分に触れている……。そうだ触れている……。乳房は今や身を任せ、乳房は今やおしつぶされている……。乳房は今やあまりの悩ましさにもだえている。乳房は今や破裂する……」  ワルツをしている間の乳房は、盲目的な勇猛さで、直接《じか》にパートナーの男性に挑戦する、果敢な突貫に憤然と。  上流社会のワルツにあっては、デコルテのご婦人たちの乳房の軽い触れ合いが、紳士たちの燕尾服の烏賊胸《いかむね》をくすぐり傷つける、懐剣の鋭どい切先さながらに。   乳房の故に殺された女たち  豪華絢爛不羇独立の気性の自分たちの乳房に、食われ、吸収され、殺されてしまった女があった。彼女たちの乳房は、いつまでも処女のまま禁慾生活を続けるわけには行かなかった。それらのに彼女たちが乳房たちに謹厳であれとの意志をあくまで強制したので、乳房たちがいきり立ち、彼女たちに反抗する結果になった。かくれた戦闘が始まった。生活力の旺盛な、さかりの歳月の間じゅう、彼女たちは、乳房平定に全力を傾倒しつづけた。ところが、勝利は乳房たちの側に傾き、防衛力はいよいよ強力化し、ついに彼女たちから内蔵を引き出し、なかみを抜いて洗いざらし、最後には誇らしく、これを軍旗のつもりでふりまわしたが、自分たちは軍旗の短い旗竿だというこれは見立だった。敗けいくさの女軍は、勝った自分たちの乳房どもに、自分たちから肺臓を奪った奴らに、自分を干《ひ》からびさせた奴らに眺め入った、そしていよいよ自分たちの最後がま近だと感じとった。彼女たちの死は、足早にやって来た、理由は人生を拒否するのは必ずしもピストルの弾だけだとは限らないので、それはまた愚劣の極致なる絶対な禁慾生活でもあり得るので。   訳者のあとがき  ラモン・ゴメス・デ・ラ・セルナ Ramon[#4文字目のoはアクサンテギュ(´)付き] Gomez[#2文字目のoはアクサンテギュ(´)付き] de la Serna(一八八八――一九六三)はマドリッド生れのスペイン作家。驚くべき早熟で、十七歳の時から世評にのぼる著作を次ぎ次ぎに発表し、若い世代の熱狂的な支持を受ける一方、あの国の既製勢力、宗教団体と軍部の激しい非難妨害の風雨に堪え、早くから諸外国で高く認められ、一九二五年に出版されたアポリネールの遺稿詩集『其所に在る』(IL y a)には、われこそはスペインのアポリネールなるぞと言わんばかりの意気ごみで、三十余頁に亘る長文の序を寄せている。他方故国スペイン国内におけるラモン排勢の火の手は年と共にいよいよ激化し、彼の作品や記事を掲載する新聞雑誌は、一切購読しないという無茶な運動までが起るに至った。一九三六年のフランコ将軍の政変以後は、断乎母国を去り、南米アルゼンチンの首都ブエノスアイレスに定住、旺盛なその文学活動を続け、一九六三年に他界するまでこの地に在り故国復帰はしなかった。彼ほどの文学的才能に恵まれた作家は、古今のスペインを通じて類を見ないとまで言われているが、その活躍は、小説、エッセー、史伝なぞ、あらゆる方面にわたり、一生の著作は百点を越える。ラモン独特の表現に、「グレゲリーア」と呼ばれる短文形式があるが、彼は、これを、諧謔プラス隠喩だと定義している。例えば〈黒魔術の秘法で、若い娘たちの心臓をすりとるに成功した真の意味の掏摸がひとりだけ今も存在している……。こ奴の手にかかると娘たちは永久に心臓を失って帰宅することになる。〉と、いうのがあるが、この掏摸の隠喩が何者を意味するかは、誰にでも察知出来るというもの。こんな皮肉なのがあるかと思うと、また、〈サーカスの桟敷席に姿を見せているあの大臣閣下は、出し物に箔をつける目的で支配人のメーキャップされた贋《にせ》ものの大臣としか見えない。〉と、いった気の利いた楽しいだけのものもある。  若い日、スペイン時代、果敢な生活者であったラモンの奇行の多くが伝えられている。大衆を前に無鉄砲な演説をぶってこれを煙に巻き、拍手と非難を同時に浴びるというあぶない遊びを好み、グラナダで行われた或る歌謡大会の開会の辞の言葉が過ぎて、ジプシーのひとりに、殺してやるぞと、胸元にピストルの銃口を突きつけられて青くなったというひと幕もあった。そうかと思うと彼は、「煙突とガス燈」を主題の講演をして、国内の主要都市を巡業したこともあった。「サーカス」と題したグレゲリーアがあるほど彼は生前サーカスを愛好したが、或る時なぞ、小屋の天井高く吊したブランコの上にどっかり腰をおろし、熱烈な大演説をぶったこともあった。彼は叫んだという、 〈親愛なる満場の諸君! 〈どうぞ、わたしの手の中のこの長い巻紙に怖気《おじけ》をふるわないで頂きたい。分厚い原稿を手に演壇に現われる弁士が、とかく聴衆に毛嫌いされると知って、こうして一枚の紙に演説の全部を書いてここに持って上ろうと企んだ次第です。ブランコ上の弁士というこの新形の弁士は、その性質上、どのみち長広舌は許るされないのであります、何しろ彼には、ノドをうるおし、弁舌をさわやかにする必要な水ビンとコップの置場がありません。ですからわたくしにも、早速、声がとぎれ、舌がもつれ、口のきけなくなる瞬間が来るはずです。鸚鵡籠の止り木と餌猪口《えぢょこ》を取りつけてみてはどうかとの、親切な忠告もありましたが、これはご辞退申上げることに致しました、それをしたのではいかにも鸚鵡並みの受け売り専門の雄弁家になり下ってしまいそうなので。……〉云々。  若い日、ラモンは、さまざまな文学結社を結成し、熱心な同志を集めては気勢をあげた、そしてその都度、さまざまな祝宴を主催する立場に置かれたが、不条理祝宴、仮装祝宴、さては客の全部がラモンという名の祝宴、自殺者フィガロの名誉のための祝宴までがあり、この祝宴の主賓の椅子には、石像がどっかと置かれていたという。  『乳房雑考』、『乳房抄』そして今度の『乳房新抄』と、毎度プレスの世話になるたびに、乳房のグレゲーリアは円《まる》みを増してふくらんだが、それもどうやら今度が限度、コーヒーの漉袋みたいに哀れに萎《しぼ》まぬうちに三度目の正直、このへんで打切ると致しましょうか。 訳者[#右詰め] 底本:「堀口大學全集 補巻2」小澤書店    1984(昭和59)年6月30日発行 底本の親本:「乳房新抄」プレス・ビブリオマーヌ    1980(昭和55)年1月8日発行 2001年11月22日公開