乳房抄 (原題不明) ラモン・ゴメス・デ・ラ・セルナ Ramon Gomez de la Serna 堀口大學訳 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)黄金粉《きんぷん》をまぶす |:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号 (例)水|煙管《ぎせる》 -------------------------------------------------------   窓の乳房  間近で見せるのは厭だと言い張って、彼女は承知しなかった。ところが僕ら男性という奴、時々ひどく執拗《しつっこ》くなる。やむなく、では、高い自室の窓からお見せしましょうと、承知してくれた。向い側に住む僕が、夜更けて、お休みのあいさつに屈みこむ時ということで。思いなおすのではないかと、僕はそればっかりをおそれたものだ! 僕の歎願が、僕の圧力が、すべて失効するのではないかとね! ひと目、彼女が、自分の聖水|容器《いれ》を捧げているあの天使像を見るだけのことで、あんな約束なんか、すべて消えてなくなりかねないのだ。こうした疑惑を宿しながら、見かけは静かな夜更けの時間がやがて訪れた、不安なざわめきを耳いっぱいに詰めこんで。彼女は知っていた、自分の窓のどの隅だけが僕の窓から覗けるか。  彼女は自室に灯《あかり》をつけた。奥のところに、いとも清潔な病人みたいに横たわるベッドがのびのびと見えていた。あの約束のことなんか、忘れでもしたかのように、身をかがめ、僕に対するお休みのあいさつだけをするのではなかろうか? それとも、にべもなく自分の窓を閉めてしまうのでは? 僕は内心早くも、彼女の手首をつかまえて、売女並みに扱ってやりたい衝動に駆られたものだ、乱暴な話だが、実に彼女が売女になりたがらないという理由で。  彼女には、はたして勇気があるだろうか? 何しろ僕らが打合わせて置いたあのことを実行するとなると、決意と勇気が必要だった。釣合うだけの不敵さが彼女にあってくれるだろうか? なぜかというに、一方、そこには夥しい彼女自身のプライドが、他方、離れて隠れている僕という人間に対する軽蔑が多分に存在する筈だから。僕はあんな無理を要求すべきではなかったかも知れない、なぜなら、こんなことがきっかけで、とかく女というものは、一生をとりかえしのつかない淫売婦になり果てたりするものだから。何しろ事実としては、彼女が世にも目ざましいストリップの舞台にデビューしたと同じ程度に、その乳房を全世界の闇黒の前に曝したことになるわけなのだもの。  彼女の動作に、彼女の遅緩さに、何らかの拘束を余儀なくされていて、しかもそれをゆっくり実行しようとしているらしい外見に、彼女が或るひとつの決心を、わが肌身を見せようという決心をしていることが窺《うかが》えた。いや、なんと無惨なこれは人みごくだ! 僕らふたりの間を幾重にもへだてるこの窓硝子さえなかったら、そして僕の言葉が彼女の耳に入るのだったら、僕は多分叫んだと思う「よそう! やめよう!」  それなのに、彼女はすでに、われとわが乳房のいけにえに一歩ふみ出していた、わが子のいけにえにふみ出した聖母マリアさまさながらの姿で。  彼女は自室の奥のドアに鍵をかけ、その上で、ホックを外《はず》し始めた。すばらしい眺めだった! いかにも自然で、そのくせ前代未聞なのだ! こうして細心に、しかもあっさり、脱いだり、外《はず》したりするため、わざわざ彼女は舞台裏でそうした小道具を身につけて来たかのようにさえ見えた。  彼女は、もう、ブラウスを半びらきにしてもよい時点に辿りついていた、それなのに、どっこい、それはまだだった、彼女はその行事を、出現と喪失を同一瞬間に取り行うために留保して置くのだった。彼女は灯火《あかり》の近くにいるのだが、そこの明《あかり》はほのかだった。  ようやく、彼女は僕の方へと目を移した。ゆっくりものを見る持前のまなざしなのに、僕がいると承知しているあたりにはわざと、それをとどめないのだ。僕なんか好きでもないというような、短かい、さげすみのそれは視線だった。そうして置いて、彼女はブラウスの前を開け、シュミーズをおろし、両の乳房を僕に見せてくれたものだ、悲劇の舞台で、「お突き立てになって下さいまし! ここ、この胸乳のあたりに、命とりのその短剣の切先を!」と、わめき立てる女のように!  彼女は待った、禁じられた写真を僕が撮るだけのあいだ。彼女は露出の時間を計算してくれたが、灯火《あかり》の消しようが早すぎた。果して早すぎたのか? ちがうな! 可愛い女《ひと》よ! いつだって早すぎたにちがいないんだ。乳房の上に屈みこみ、見おぼえて、記憶にとどめようとするには、そのものの上で、幾夜さも過ごさなければなるまいよ、微生物の研究者が、顕微鏡を覗き続けて幾年もすごす、あんな具合に。  僕は、何を見たと言うほどのこともなくてしまったが、空中に浮んで消えた片乳《かたぢ》の光芒だけはしかと見た。大きくもなく、小さくもない、それは、一生の色恋の、乳房の役のどれにも似合うそれだった。  ………………  翌朝、泣きながら、彼女はバルコニーに姿を見せた、夜どおし泣き続けた彼女だとひと目で知れた。その晩、彼女はもう一度姿を見せた、いそいそと、ほがらかに、向う見ずに、それなのに暗がりに戻ると、彼女は気落とはずかしさを、も早無用の長物とわが身を感じるのであった。それにしても、どうして僕には、夜どおしの窓の硝子を打つ彼女の涙の雨おとが、聞えなかったのだろうか?   近東の乳房商人  太陽が瓦屋根のへりに黄金粉《きんぷん》をまぶす時刻、路傍の青い影にひたって、とある大きな告解所の入口近い掘立小屋の中で、その乳房商人は居眠りしていた。彼は自分のコレクション中の夢想に長《た》けた乳房を喫う気持で水|煙管《ぎせる》を喫い続けた。  小屋の奥には見えていた、色とりどりのクッションに寝そべった裸の女たちが起き出すのが。母親のベッドに動く生れたばかりの嬰児の動作さながら、デリケートにのたうつそれは波だった。  鶏卵の籠から受ける、あの白い感じ、あの球体の感じ、あの数の感じ、あれがこの乳房商人が全能の支配者として所有する全部の乳房の置いてある店舗の昼寝からの印象だった。  時おり、道行く人の誰やらが、買いたげな素ぶりを見せるが、本当は、その人も乳房の巣箱が間近かに見たいのにすぎぬのだった。 「さわってはいけませんよ……。どうぞ、さわらずにごらん下さい……。さわらずにお選び下さい、離れたところから……。」とげのある言葉で、その近東人は繰りかえし注意をうながした。 「こんな女ども、まるで値打ちがないぞ!」いささか凋《しぼ》みかけたり、あまりにも醜くすぎたりする女を指して、人たちは亭主を野次った。そんな時、亭主は答えることにしていた、「わしはな、女衒《ぜけん》じゃねえ、乳房商人だ。」  まさにその通りだった。彼は目にふれる女どもは、ひとり残らず検査した、どんな不美人もあきらめずに、おかげで彼に、近東地方きって、一番色白の一番美しい乳房の発見が出来たのだった。 「うわべの殻《から》を見て椰子の実を判断していたら、永久に椰子の実は見つからなかっただろうよ。」  その代り彼は、いかがわしい乳房や、破産した男のポケット並みのしょぼくれた乳房の美人は敬遠した。  この乳房商人は、自分の所有する乳房に対しては、あらゆる注意を怠らなかった、この男に匹敵するほどのスタイリストはいまだかつて存在しなかったかも知れない。 「ダジャリ、ちと起きあがってみな。」影絵に向って彼は言うのだ。やがてダジャリがクッションに座りなおすのを待って、今度は買手に言う。 「お気づきかな、あの娘《こ》の双の乳房が、くっきり離れていて、あの娘の美しさの二つの中心に成っているってことが……。」 「アイライダ、起きてみな、それとも起きるのがおっくうなら、あんたがどこにいるか分かるように、片手をあげてみな。」蜜のように甘い口調で彼が続けるのだ。すると、アイライダが、猛獣|檻《おり》の奥で、燭台とも、香焚き台とも、まごうほどの美しい片脚を高々と揚げる。見るなり彼は買手と一緒に、やおら、ころがっている懶惰な死体たちを跨いで近づくのだ、そして買手に言う。 「ごらん下さい。双のこの乳房を、これよりは恰好はよろしいが、熱に不足な先きがたのあれとは逆に、お互ににじり寄り、二羽の山鳩みたいに嘴をさがし合っていましょうが、ふれ合ったら、火花も散ろうというもの……。」  美の、調和の、活気の実物宣伝が長々と続くあいだに、乳房商人はふと気づく、同形とは行かぬまでも、せめては類形の一対を探しているこの客が、大金持ちか、さもないなら、この道楽の達人に相違ないと。 「では早速、専門の技師さんに立会って貰いましょう。」彼が最後に言うのだった。「専門の技師さんに幾何学応用の測量をして貰い、あの二つの乳房が、二等分した神様みたいに双方同じだと証明して貰うとしましょうや。」   世捨人  人生の終末が、乳房の修道士風な観照、つまり、両手を女の胸乳に置き、これぞ明らさまな人生虚偽の実証なりとする世捨人風の観照であっても、一向に不思議はないと思うがどうだろうか?  何びとも、この悟りに到達するのが当然で、結局はこの最終的な懐疑に陥入る筈のものなのだ。  すでに世の老人たちの中には、かのシシリア島の僧侶たちが、皮を剥いだ頭蓋骨に対すると同じく、単に放心状態に入らんがためにのみ乳房を求める者も、確かにあるのだ。ともすると、僕らもすでに若い頃から、乳房を愛撫しながら、この悟りの、落着きの、浄化の心境に何度かなり切っていたのではあるまいか。   ばらばらな思いつき三  彼女は夜明けをおもんばかった、われとわが乳房の円みにふれて……、それなる光線の発条《ばね》に手をやり闇を照らした。    ☆ 「ここだね?」言葉には出さずに、僕は自問した、疑う余地のない実物に、わずかに手をふれるだけで。そこは全世界が従順に愛撫に身をまかすところ、そこは手の重みの下、やわらかくうれしい乳房が実物として感じられるところだった。    ☆  女は鏡の面《おも》に乳房を打ちあて、キャッチ・ボールを楽しんだ。毎晩、乳房が、われとわが姿を映し、おのが姿に眺め入るこの稔りのない勝負を楽しむことにしていた。   告白  どんな女に対するより、より深い信頼感が持てるようになったので、たずねてみた。 「それで、乳房にはどんな感じがあるものなんだい?」  最初の頃のようにほんのり顔をあからめるだけで、しばらく答えなかった。 「本当のことをいったら、あんたがっかりするんじゃない? 永久の幻滅になってしまって?」 「大丈夫さ……。男って、困ったことだが、何度幻滅を感じても、同じイリュージョンをまた持つように出来ているんだ……。宿命だね、これは……。あんたに何と言われようと、飽きずに僕は乳房を探しまわる筈だよ、どこやらの怖ろしい彗星《すいせい》が地球に衝突するというので騒ぎ立て、ありもしない世界の終りに僕らを捲きこみ、理性を失わせたあの晩のようなものさ。」 「本当に大丈夫なのね。では言うわ。」彼女が言った。「あたしたちの乳房が受ける感じって、どこまでも冷たいのよ……。乳房って、あたしたちの肉情からは遠い所にあるのよ、そうね、雪の消え残っている山みたいなの……。男たちが乳房にする愛撫は、ただ酸《す》っぱいだけよ……。最初に処女のあれに手をふれる男だけが、一度だけ、本当にあれにふれたというわけなの。だって女の全身に警報が鳴り渡り、いよいよその時刻が来たと知らせるこれが呼鈴《ベル》だという感じがするんですもの。それっきり、乳房はもう何も感じなくなってしまうの。」 「では、僕ら男どもが、あれとたわむれている場合に、あんたたち女は、僕らの有頂天なうれしがりも、生一本な熱中も、まるで分ってはくれないというんだね?」 「そうよ。あたしたちは冷静に、まともに男たちを見守っているだけよ、もしも男たちの盲目な狂おしさが、いつまでも続くようだと、あたしたちの乳房からは、冷たい水のしみこんだ海綿が二つ落ちて来て、あたしたちの感性をいよいよ冷却させるというわけよ……。下品でいやらしいたとえだけれど、あの時の男って、何かかくし持ってはいないかと、女の胸ぐらへ無遠慮に手を突っこんで、いつまでも探り続ける警官に似ていると言いたい位よ……。」  そのあと、どう満してよいやら分らずに、ふたりが途方にくれる沈黙があった。感性のまるでない乳房、僕を嘲笑するはずの乳房、僕の両手をさげすむ乳房に、どうして僕が触れ得ようぞ? 「よく正直に言ってくれた……。では、さようなら。」 「さようなら」と、彼女が言った、毛皮に身を包みながら。「でも、忘れないでちょうだいね、あたしがまだ誰にも言ったことのないことをお話したということだけは。別れたあとも、友だちとしてお目にかかりましょうよ……。誰れにもしたことのない告白をひとりの男のひとにしたということは、誰れにも与えたことのないものを差上げたということですものね。」 「さようなら。」ドアのところで、僕が言った。そしてオーバーを着ると、居どころの知れている乳房の方へと歩き出した。当然、その乳房も、僕をひとりよがりの、呑気ものと信じて軽蔑する筈。   宗教裁判官の妻の乳房  意地のわるいその男は、蛇そっくりの偽善者だ。判断力も肉体も、ふたつながら狭隘、目は小さく、顔には虱退治に使う黄いろい毒の粉末を塗っている。  数人の容疑者をむごたらしく裁判し、人生享楽に称賛に値する強い意志を示した数人の男たちを、太陽の光から遠のけた上で、満足して帰宅する。夫の帰りの時刻を心得ている彼の妻が、待ちうけてドアを開らく。石みたいに硬くてむごい胸板に、温室育ちほども内気な乳房を感じるうれしさでいっぱいな宗教裁判官が、妻に接吻する。 「すてきなコントラストよな!」舌なめずりしながら悪心者《あくしんもの》が思う。「わしがきびしいのは、妻のやわ肌の胸乳《むなぢ》が満喫したいがためだ……。誰れかれの容赦なく、享楽に深ばまりしたり、形の美しいふくよかな乳房を心ゆくまでいじりたがったりする奴を、きびしくわしが罰する理由は、水いらずで、妻を愛撫する時の楽しさが、おかげで一層甘やかに楽しくなるからだ……。」  事実、この忌まわしい宗教裁判官が、うす気味のわるい微笑を浮べて、伊勢えびを盛りあげた大皿に、食いしん坊がとびついて行くように、夫人の乳房にかじりついて行くのは、きまって、大罪人の処刑の日、集団処刑の日ときまっていた。   階段での乳房狩り  若者はとかく、近所の乳房を、階段を狩場に、しとめてやろうと夢想する。  階段、そこは、生気にあふれる乳房の持主、七階に住むあの娘さんが、そそくさと降りて来る一本道だ。  彼女は降りて来る、とびはねるような足どりで、おかげで乳房が一層目立つ、ありありと、どこにかくそう術もなく。胸いっぱいに、これ見よがしに、とびはねて。今が今、手を出す時ではあるまいか?  まだだ、まだ早すぎる。居住者全部の朝が、うまそうなスープや煮こみ、世帯の匂いをぷんぷんさせて、出会い、行き会う、この一本道に、乳房を慣らせて置くべきだ。  朝の階段という、この栄光の道から、彼女の乳房は、天へものぼれば、地上にも降り立ちそうに見える。  だまされ易い青春は、階段のこのような、どっちつかずの気楽さに刺激され、七階の屋根裏部屋に住むあの乳房が、手に入りそうな気持になる。  やがて或る日、その青年は、ひそかに、決行の時を待つ。自室のバルコニーから、彼はあの陽気な娘さんの帰宅を見張る。彼は帰宅する彼女を見る、彼はまた見る、自分のバルコニーの直下を通りすぎる時、彼女の乳房がいかに造形的に美しいか、どのような具合に、一歩彼女に先んじて戸口へ入るかを。  青年は、扉のうしろにひそんで待つ、乳房を踊らせて階段を上って来る陽気な娘さんを。  階段の光線は、どことなく、逢引きの家の磨り硝子越しに入って来る光線に、さもなくば、浴室内の光線に、似る何ものかがある。  途中、彼女が何のために、とある踊り場に立ちどまったものか、誰も理由は知らない。彼女は、彼以外の誰やらからの手紙を読んでいるのだろうか? 腹だたしい邪魔が入ったものだ! もしかすると彼女は、自分を待ちうける悪魔に対する呪文を唱えているのかも知れない。  彼はいつまでも、自室の扉のうしろにいる。彼女はというに、彼女は安全のいよいよ最後をマークする踊り場に、今しも、さしかかる。突如、青年が扉を排し、身をおどらせて飛びかかる。  数秒間の格闘。彼女が彼を押しのけて、のがれる。彼は気づく、階段で格闘する責任の重大さに。悲鳴が誰かの耳に入《はい》らぬとは限るまい。彼は階段という場所は、もっと聾なところだとばかり信じていた。扉という扉が全部覗いて見ている、全部の扉が理解した、彼がやりかけた暴行を。  階段というところは、怪しからぬ場所だと、青年たちの全部が思ったものだ、階段での狩りを体験したあとでは。階段という奴は、冷淡で、用心深くて、恩知らずだ。このような風変わりな場所、このような落着かない場所では、女はとかくその気にならない。   花乳房  この現象は、より高度の進化がとげられ、新しい女が出現した時になって初めて、現われる筈なのである。進化論の一種、生物変移説が説く過渡の一時期、それは数百年にも及ぶ一時期に、乳房は自然に開いて、花心の縮れたあのカメリアの花の姿で咲く筈なのである。  乳房にとって、この現象は苦しい筈だ、出産ふたつ分も苦しい筈だ、その代り、乳房は新しい宝石に飾られている筈だ。  女たちは、乳房を大切にブラウスの中に守ることになる筈だ、彼女たちは怖れる筈だ、乳房がもしかしたら散りはしないかと、あの説明しようもない形態に由来する猥褻《わいせつ》な、従ってまた挑発的なあの外見を失うのではあるまいかと怖れる結果、女たちはブラウスの二ヵ所を開いて、救うべくもなく永遠に花と化してしまった蝋細工のカメリアとしか見えない生きた花なる乳房をのぞかせることになる筈だ。   ピラールの乳房  この娘の乳房、これに手をふれ、これを愛撫したのは、僕が最初だった。ひとり前の女たちの乳房に触る時同様の激しさで僕はそれを始めたが、すぐに気づいて自制した。理由は、歯の生えかけの乳児の歯ぐきさながら、彼女が痛がるからだ。  愛撫をつづける手の下でこの乳房が、次第に育ってゆくのが感じられた。「青いうちから摘み取って、せっかくの明日《あす》の実りを、わけもなく無駄にしているのではないだろうか?」と、何度自問したことか。  乳房たちは、ベッドの中のあか児さながら、不安そうにもがいたり、食を求めてくちばしを尖らせたりした。乳房たちが、接吻や愛撫以上に望んだのは、一日も早く大きくなって飛び立つことだった。  彼女はこの乳房を僕に差出すのだった、メダルや鍵のついた首飾り《ネックレス》と一緒に。鍵は内側が小さな鏡になっていて、婚約ずみの娘たちなら、手紙を、女中たちなら櫛をしまって置くような手箱の鍵だった。  僕はいつまでも忘れないだろうと思う、彼女がそれを僕に、差出した日、食べずにはすませなかったあの乳房、初恋のいとも気軽な無慾さで、自分が所有する最上の二つのボンボンのようにして差出したあの乳房を。   乳房のための決闘  エロイーズの乳房ゆえに、フランソアとマルタンのふたりは、不倶戴天の敵《かたき》になってしまった。各自《てんで》に一個づつ、仲よく分け合うことも出来たはずなのに、彼らには、ついにこの考えは浮かばなかった。彼女の方も、古着屋なみの頑固さで、乳房の分売は望まなかった。  ばかげた論議の結果、男たちは、決局決闘で始末をつけようということになった。  決闘は厳粛に準備され、勝者がエロイーズの所有者になることに決った。  ぼやけた木立が、未明のうすやみの地上に浮びでる早朝、ふたりの敵手は、邸外の、とある路上に辿りつき、早速闘った。 「彼女の乳房のために!」いよいよ戦闘開始という矢先き、昔の騎士が忠誠を誓った貴婦人に命を捧げたあのやりかたで、フランソアが高らかに叫んで言った。  戦闘は短兵急だった。そしてフランソアが地面に倒れた。するとひとりの女が茂みの奥から、風につまづきながら飛びだして来た。  立会人と招待客の群《むれ》をかきわけ、負傷した男のそばへ辿りつくや、彼女は上から屈みこんだ。 「息をひきとる寸前だ。」人たちのつぶやきが聞えていた。 「僕は死にます。」力のない声で彼が彼女の耳もとで言った。ところが、ここで大事なロマンチックなあのきまり文句、「あなたのためだと思えば、嬉しく死んで行かれます」を、うっかり言い忘れてしまった。理由は彼が、心から彼女のために死んでゆく男だったので。  哀れになって、彼女が訊ねた。 「こうしてわたくしの乳房のために?」 「そうです、あなたの乳房のために。」  彼女は胸衣のホックを外《はず》すと、救急箱から起死回生の妙薬でも取り出すように、片乳を彼に含くませた。彼は暫くそれを愛撫していたが、次第に生気をとり戻し、行く末長いエロイーズとの結婚生活の第一歩を踏み出した。   童話の乳房  太陽お下髪《さげ》の十五歳のこの少女は、乳房を失《な》くして泣いていた。泣くわけは、まだ役にたってはいなかったが、何か乳房には不思議な効力がひそんでいると気づいていたのと、自分が指針をあるものに期待していたがためだった。乳房は女性を指南する梶棒だもの、泣いたとて無理もなかった。 「あたしの乳房! あたしの乳房! どこで、あたしったら、乳房を失《な》くしたのでしょう?」少女は気もそぞろに泣き続けた。泣きながら、彼女は、森の奥へ奥へと乳房をさがして深入りした。 「あたしの乳房! あたしの乳房!」と、繰りかえしている間にも、彼女の両手は自分の胸あたりに、乳房のふくらみを探し続けた。  少女はひとりの老婆に行きあったが、どうしたのかとその老婆が尋ねた。 「あたしの乳房を失《な》くしましたの。」盗難にでもかかった女の大袈裟な身ぶりで少女が答えた。 「ああ、そうなの! かわいそうに、鳥が来てあなたの乳房を取りあげて行ったのね……。その大きな鳥には、自分に他の高等動物並みの乳房がないことだけがなやみだったのね。うっとりするほど立派な乳房がある鳥は、天使の住居《すまい》のドアもノック出来れば、自分の身についた地上の乳房のおかげで天国へも行けるんだから。」  乳房を失《な》くしたその少女は、それが永久に失われたものときっぱりあきらめることにした、そして一生の間、両手をあらぬ乳房のありどころに、乳房恋しい思いをこめて、押し当て続けたものだった。   無数に乳房のある偶像  それは黒人女神像の最高を現わすとされている。もともと黒人というのは、あらゆる種類の乳房のイメージを満喫しつくしていて、巨大なのも、長くてしゃんと立ったのも、こぶだらけで臍下までたれ下がったのも、珍らしがらない連中だ。多分そのためらしいが、彼らが珍重するのは、専ら超自然の乳房に限る。  無数に乳房のある女神像には、神々を籠絡し、引きつけ、慾情させる力があるとされている。  彼女はどんな風《かぜ》にも吸わせておく、彼女には不滅の女性の勢力が備わる。女たちは驚いて彼女を眺め、長いのや、生き生きしたのや、横柄な腕みたいな恰好に張りきって、神々を抱きよせ自分の周囲に平伏させる無数の乳房を羨望する。  この女神像の前に立たされる人間の手は、どの乳房を握ったものかと戸惑うことになり、全部を束にして握りしめることになるので、まんなかに置かれた乳房は、劇場の入口の人ごみや、行列行進にまきこまれた子供みたいに圧しつぶされることになる。   乳房の香気  そのペルシャの王様は、乳房の香気について実験されたというわけだ。もともとペルシャの王様連というのは、すべて感覚上の快美感の偉大な発見者なのだ。彼らは自分たちの実験室に、女を飼育しており、これにあらゆることを試み、あらゆる極端な成果を体験するわけだ。  モゴール三世と名乗るこの王様も、或る日の夕、サロンの高い天井近い片すみに退屈の蜘蛛の巣を視線で織りなしていられた時、ふと気づかれた、絶美の乳房の乳首に、マッチの棒で点火してごらんになりたいと。  新しい香気を立てる香炉もがなとのおこころから、モゴール三世王は、白磁の香炉に焚く小麦いろの煉り香というお見立てで、作ゆき見事な乳房を選び終った。  何とも馥郁たる香気だった! それは宮殿の隅々まで満ちわたったが、但しそれを味わったのは、想像力豊な男たちに限られた。他の人たちが、かいだのは、しきりに回転させながら藁火と燠火《おきび》で豚を焼いている最中の屠殺場から流れでるあのこげ臭い匂いだけだった。   サン−タラマント夫人の乳房  タッソー夫人の歴史博物館に置いてあるあの生き人形の乳房ほど、興味のある乳房は、どこにもまたとなさそうだ。あの博物館内のおびただしい死んだ女たちの蝋細工の乳房の大群にとりまかれていても、僕は実は平気でいられたものだった。理由はそれらの乳房が問題外に置かれていて、もはや敵意もなければ欺瞞もないという気がしていたからだ。ところが、その時ふと、僕はショーケースの奥まったところに眠っているひとりに女の双の乳房が、瞼をとざして眠っている乳房にいかにもふさわしい平静なリズムで鼓動していると、気づいたものだ。  カタローグの説明によると、この人形はヘチュイルリー宮殿夜襲の際に戦死したルイ十六世王の新衛隊長陸軍中佐の未亡人、二十二歳で断頭台上の露と消えた、サン−タマラント夫人の在りし日の姿だとある。  ここで初めて僕は、注意して彼女の乳房に見入ったものだ、なぜかというに、断頭台の露と消えられたとは言うものの、彼女の乳房が今になお鼓動しつづけているからだ、言わばこれは元気一ぱいな健康体で、全身の血液の循環も完全な状態で死亡した女の余生のようなものなのだ。  博物館の奥にある或る仕掛が眠るこの美女の乳房を生動させているわけだった。彼女はと見るに、ダンテルのうず高いゆりかごの中に横たわり、両の乳房はむきだしに近く、肌いろはやや黄ばみ、そのためかえって肉感ゆたかだ。  この乳房見たさに、もう一度見たさに、僕はロンドンに戻ったが、まだこの上、一度や二度は、これからも戻って来そうだ。あの乳房、あれこそは実に、乳房の象徴、ありとあらゆる乳房の中で、最高に生気のある乳房、あの世に於けるありとあらゆる乳房の意外な姿態、陶然と宮殿のひとりぐらしにひたりきり、二度と目覚めるあてどなしに、永遠に眠ってしまわれたプリンセスの乳房との出会いだからだ。目の前の乳房とシュミーズのダンテルは、世にも純粋な生命の中にあって息づいているのだった。そこにあるその乳房こそ、正しく沈黙の乳房であり、独り居の乳房だった。乳房の概念の最も純粋なものだった。 底本:「堀口大學全集 補巻2」小澤書店    1984(昭和59)年6月30日発行 底本の親本:「乳房抄」プレス・ビブリオマーヌ    1970(昭和45)年3月発行 2001年11月19日公開