両足をつかまえられた鳩みたいに、舞い立とうと、羽ばたく乳房があるものだ。
こんなに美しい乳房の持ち主の顔が、こんなにみっともない筈はないと、驚かされることがままある……。このふつりあいがかもし出す不安があるので、男はいったんこの種の乳房に魅せられたが最後、一生はなれられなくなる。
青い乳房の、ばら色の乳房の、紅い乳房の、女があってもいい筈なのにね。
開ききったばらの花びらみたいに、まるまって、のけぞりかえる、乳房もある。
安泰でいっぱいな乳房がある。
苦悩でいっぱいな乳房がある。
恋慕でいっぱいな乳房がある。
離婚でいっぱいな乳房がある。
悲運でいっぱいな乳房がある。
毒薬でいっぱいな乳房がある。
いら立ちでいっぱいな乳房がある。
驚きでいっぱいな乳房がある。
布施でいっぱいな乳房がある。
姦淫でいっぱいな乳房がある。
偽善でいっぱいな乳房がある。
林檎でいっぱいな乳房がある。
あくどい手管でいっぱいな乳房がある。
聖母のメダルでいっぱいな乳房がある。
小銭でいっぱいな乳房がある。
見かけの白さの下、黒さでいっぱいな乳房がある。
風船さながら、空気でいっぱいな乳房がある。
天然自然の姿、つまり裸で生活していた女たちが、何の懸念もなしにのんびりと太陽の光を浴びて横たわっている時になぞ、彼女たちの乳房が、物好きで食いしん坊な触角をにょきっと出すことが、ままあったとさ。
乳房は山羊のように、メーと啼き声を立てるのがよいのだ。思いつめた、そして身にしみるアクセントで、メーと啼くのがよいのだ。さもないなら、にわとりの
乳房を地上最高の物質だとみなす事に、異論をさしはさむ者はまずあるまい。
この世界は本質的には物質だ、ところで乳房は物質としての最高位にある。そのくせ液体や気体のように、僕の指のあいだから逃げたりかくれたりはしない、そのくせ気体であると同時にまた固体なのだ。
だから乳房が、僕の本気の礼讃に値するわけだ。ただし、最高中の最高の物質だとは言うものの、万物は空無であって、「神」さえもが空無だという、この鉄則からはやはりまぬかれない。
乳房こそ、浄化された物質だ、最美のチューリップだ、実在そのものの花だ。
だから僕は、自分が先きに書いた乳房の本(訳注、ここにいうこの本『乳房』の抄訳が、プレス・ビブリオマーヌから近刊予定で、目下進行中だ。)が、誇張だとも淫猥だとも思わない。僕が書いたのは、はっきりことわっておくが、世にも純粋な、世にも神聖なあのフォルムについての連祷の書だ。あのものの千差万別な点が、スタイル以上に僕の興味を引いた。あの一冊に納める目的で、月並みな女たちから僕が奪掠して来たあの聖体現示台は、性病の感染や、不潔な性交に怖れをなして、心も手も
厚々として重いうえに、毛皮のへりまでついたジャケットの袖を通しながら、女は言っている風だった。
〈そうよ、あたしいい子になってあげるわ、ごらんなさい、あんたが痛くないように、おっぱいまでが真綿いりよ〉。
他にもまだ、色々変った種類の乳房がある……。放物線の乳房もあれば、
触れる手が流れ、手が落ちる、すべすべした乳房があるものだが……。このような乳房を前において、僕は思っていた、
月の光に照らしだされた乳房は、或る種の植物の茎の切口から滲み出るあの乳液以上に白い何ものかでいっぱいだ。それは、月よりも白く、例えば蜂蜜の中に含まれているものが、花の中にあったもの以上であるように、月から受け取ったもの以上の、何ものかだ……。つまりこれが月の蜜だというわけだ!
乳房という奴は、目玉のとび出たモンスターみたいに、じっと人をにらみつけるからこわい……。僕はあの表情を追ってみた。僕はあの表情をキャッチしようと苦心した、すんでのところでキャッチするところまで行った、ところが僕にはあれがはっきり見えなくなった、あれがはっきりつかめなくなった、僕にはあの目玉が、どの点まで伊勢えびの目玉と似ているか、確証をあげ得なくなった。
僕は乳房の凋落を想像してみた、それはまず、自分自身の中に巻きこまれ、やわらかくて緻密な
冬の乳房は、隠れ家の奥に大切に守られてひそんでいるが、姿を見せたとなると、春の印象を与えずにはおかない……。秋の乳房は大気との接触に生き、感受性を増大し、世の中のものの哀れに動きやすい……。春ともなれば、乳房は春の岸辺に身をのり出し、自らも春の朝露にふくらんで、身も軽く、咲く花の瑞々しさでいっぱいだと感じている……。夏の乳房は、太陽に燃え、熱気に焦げつく思いの切ないまま――女たちは夜更を待って人目のないのをよいことに、われとわが手にバルコニーを開き、夜の涼気におのが乳房を捧げるということになる。
水の中の乳房は
才女の乳房には知的な白さがある、脳味噌並みにぐにゃぐにゃで、雑念まじりなので、とかく溶け易い……。とは言うものの、これだとて、乳房は乳房、かてて加えて、いかにも哀れを誘う姿なので、思わず人は慰めてやりたくもなる、〈ここへおいで、過誤と無益な心労と、小学生なみの知識のいっぱいに詰った哀れな乳房よ……。ここへおいで、常道を外れた乳房よ、自らを乗り越えた乳房たちの道には従わなかった乳房よ、愚かで美貌な女たちの牝山羊の乳房の道にも従わなかった乳房よ……。ここへおいで、愛撫する手は君たちを、とにかく楽しむことだろうし、君たちにとっても気ばらしにはなりそうだ。君たちをもったいぶった日常から救い、自然にかえしてくれるかもしれない〉
明け方、乳房はもはや無きが如くだ。明け方は、乳房を信じない、
明け方の乳房は、心霊術の写真のように、磁気をいったん吸収し、次いでそれを周囲に、ほのかな光として発散する。
ゼノアやマルセーユの港まちの、船乗り相手の居酒屋に働く女たちは、ちょっと乳房を、不可視のサイフォン場のように近づけるだけで、あらゆる飲み物を、アブサン以上に強烈な酒に変えてしまう。
何の理由とも分らないまま、僕は確信を以って、古代エジプト女性の乳房が、最高に貴重で、しなやかで、尖っていたと思いこんでいる。それは彼女たちの精霊で作られていた。しかもその精霊たるや、肥沃で堅牢な土地と、広やかな四方の地平線の眺望と、その後今日まで、ついに一度も真似ることのできなかった緻密さと理想主義とから成る偉大な宗教性に満ちあふれたものなのだ。
きつく布で締めあげられたあの
何んと古代エジプトの乳房が、素晴らしく配置されていることか! 長いすかっとした格好の脚の上に、何んと際立ってそれが見えることか! それはかくれた美しさのすべてをあばき、彼女たちの精霊の
乳房も、かくれて、大急ぎで、
カスチリア地方の鳩たちと同じく、鳩独特のあのおちついたグレーを着た鳩たちと同じく、乳房にはグレーの
最上等、最斬新、どこにも変質のきざしのまだ現われていない乳房というのは、一度だけの春の乳房、一度の春の間に育ち、ふくらみ、そして死に始めた乳房のことだろうか?
僕が身近で生きたかったと思うのは、密輸が
夜の、殆んど絶対な闇の中で、僕は自問する、
〈向うから来るあの女、あの女には乳房があるだろうか?〉
いまが丁度、乳房がへこみ、行方をくらますその時刻なのだ……。どこへ行っているか、誰も知らない。いまが丁度、どの女たちにも、白い謎のような影の気品が備わる時刻なのだ。
ちんばの女たちの乳房こそ、男の
僕は想像する、猛獣使いの女が、見事な大ぶりな乳房を、これ見よがしに、挑発的に突き出して、檻の中に現われると。
僕は想像する、ライオンたちが、この出現が意味する重大な挑戦を理解して、彼女のデコルテのローブの上から、太い爪の一撃で、かた一方の乳房をもぎ取り、これを地面にころがすと。
ライオンはそれを、檻の片すみに持ち去るが、食べてしまうためではなく、銅像のライオンが、青銅製の地球に、片足をのせて見えをきる、あの恰好がしたいからだった。ただちがうのは、なんとも甘えた恍惚の表情だけだった。
その若い男は、彼女に、乳房を呼鈴のいたずらを、絶えず繰りかえした。指で乳首を押しては、言っていた、
〈リリーン〉。
〈リリーン〉。
〈リリーン〉。
〈リリーン〉。
〈リリーン〉。
ある日、乳房の呼鈴が、本当に鳴り出したその時まで。
Ramón Gómez de la Serna は、一八九一年スペインの主府マドリッドに生れた。
最初の著書“Entrando en Fuego”(『火中に飛びこみながら』)が、一九〇四年の出版だというから十三歳、異例な早熟だが、ラモンはまた異例な多作、三十歳までに六十余冊の著書を公刊している。
ドン・キホーテの国、スペインならではのけたはずれのこれは作家だ。
小説はもちろん、戯曲も評論も、山ほど書いている。
ユモリストとしても第一流。
ヴァレリー・ラルボー、ジャン・カスー、マルセル・オークレールなど、一流の作者たちにより、早くからフランス語に訳され、愛読されている。
本訳、テクストはジャン・カスーの仏訳によった。
大学老詩生記